2024-02-08

ISSUE

008

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Critique

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「生成AIはファッションデザイナーの夢を見るか?」という問いを超えて

Text by 水上拓哉

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2023年10月14日にワールド北青山ビルにて開催されたデジタルファッションをめぐるカンファレンス「次元を超えるファッションデザイン/FASHION ACROSS THE PLURIVERSE」。Synflux株式会社が株式会社凸版印刷の協賛のもとで開催した本イベントは、デジタルとフィジカルの融合を前提に新しく勃興している「次元を超えるファッションデザイン」の可能性を探索するリサーチプラットフォーム「WORTH」の公開を記念して開催された。メタバース上でのアイデンティティやファッションについて、またリアルとバーチャルを架橋する可能性や手段について、専門家や研究者と共に探究し、多角的な視点からの議論が展開された。

今回、このイベントを振り返ると同時に、ここで展開された議論をさらに深堀り、補完し、さらなる活動へと繋げるためのクリティーク集「FASHION ACROSS THE PLURIVERSE EXTENDED」をお届けする。イベントでの議論をもとに、若手の研究者や活動家たちは何を受け止め、考えたのか。さらなる展開へと期待が高まるテクストを、お楽しみいただきたい。

今回は物理環境と仮想環境の「境界」における新しいデザインの創造性を議論したセッション、「LIMINALITY BETWEEN CLOTHES AND SIMULATION/衣服と情報の境界面」に対して、技術哲学を専門とする水上拓哉さんの批評を寄せていただいた。


※イベントのアーカイヴはこちらからご覧いただけます。
次元を超えるファッションデザイン/FASHION ACROSS THE PLURIVERSE

長見佳祐(HATRA デザイナー)+三宅陽一郎(東京大学特任教授)+川崎和也(Synflux株式会社 代表取締役CEO)

これからの未来、ファッションデザインはすべてAIの仕事になってしまうのか――もしかしたら、このような問いの立てかた自体が間違っているのかもしれません。「ロウソクが消えたとき、火はどこに行ってしまったのか」という問いが、「解決」ではなく「解消」を待たなければならないのと同じように、生成AIを人間と同じ立場で評価すること自体が、ある種の擬似問題を生み出している可能性もあります。

Session2「衣服と情報の境界面」は、まさにこのような点を考え直させる、示唆に富む議論の場でした。蛇足を覚悟しつつ、ここでは彼らが展開した論点のいくつかを技術哲学の観点から補足し、生成AIとファッションデザインの関係のあり方について深掘りしていく、ひとつの取っ掛かりを作りたいと思います。



“Genarative AI can …” の落とし穴

本セッションの議論で示唆された重要な論点のひとつは、現在の生成AIの成果物をそのまま取り出し、それがファッションデザインを代替するかを問うのはあまり有意義ではなさそうだ、ということです。

生成AIは特定の職業や仕事を代替しうるか。このような問いや議論には、ある前提が潜んでいるように思います。それは、生成AIの「能力」を、何らかの観点で客観的かつ独立的に評価することができる、という前提です。

生成AIの「能力」とはなにか。通常は、それが生み出す「生成物」の質が評価されることになるでしょう。昨今では、大学生がレポートや卒論の執筆をChatGPTに任せっきりにしてしまうことが懸念されていますが、これは生成AIの生成物の質が、学生が自ら考えて作り上げたそれを簡単に凌駕してしまう(ように見える)からだと言えます。

しかし、ファッションデザインのようなクリエイティブな分野であればどうでしょうか。生成AIの生み出したデザインに含まれている(かもしれない)思想や感情表現がブラックボックスであるならば、そのパフォーマンスは、受け手の評価に依存することになります。この意味において、生成AIのデザイン「能力」は、たとえばあるロボットが100mを10秒で走ることができる、というような客観的な形では示せないわけです。

三宅氏が指摘したように、生成AIのファッションデザインへの本格的な導入例は多くありませんでした。「何かを生成するAI」という意味での「生成AI」はAIの黎明期にすでに登場していたのにもかかわらず、です。これについて長見氏と三宅氏の議論で示唆されたのは、生成AIの利用をめぐる天秤、すなわち、説明可能性の無さという欠点と、生成物の質という利点のバランス関係があり、それがようやく後者のほうに傾いたのが最近なのではないか、ということでした。実際、長見氏は、自身が生成AIを利用し始めた理由について、生成AIから出てきたものが予想よりも面白いものだったからだと語っています。

しかし、成果物の「評価」はデザイナーのものだけではありません。長見氏が「悩み」として表現したように、デザイナーが生成AIに与えるプロンプトを調整するプロセスに楽しみを見出し、それを肯定的に評価したとしても、それが最終的な受け手に伝わるとは限りません。「AIに頼るなんて怠慢ではないか」と非難されることもあるでしょう。三宅氏がコメントしたように、ファッションデザイナーが生成AIをポジティブに評価したとしても、受け手側の受容の問題は残り続けるのです。

寺の壁に描かれた龍の白眼に点を描き加えると、龍は壁を飛び出し、天高く舞い上がった――そんな故事成語もありますが、その最後の1画以外が生成AIの仕事だったとしたら、龍はその人の作品だといえるのでしょうか。昨今のSNS上でのAIイラストレーターをめぐる激しい論争は、これが理屈の上でも感情の上でも単純な話ではないことを示していると思います。

意識しているかどうかにかかわらず、私たちは普段から技術的人工物に囲まれ、それらとネットワーク的な関係を構築しながら生きています。技術哲学や科学技術社会論においては1980年代からこのような性質が注目されるようになりました。「技術」というものは、人工物や社会的実践、社会的関係、知識体系の結合であり、この性質はこれまで「社会-技術アンサンブル」(Bijker 1995)や「社会-技術システム」(Hughes 2006)、あるいは単に「ネットワーク」(Law 1987)などといった形で表現されてきました[1]。

[1]

この点についてはJohnson(2006)を参照。

三宅陽一郎(東京大学特任教授)


そして、これは生成AIにおいても同様です。たとえばAIイラストの問題では、イラストが投稿されるプラットフォームも重要な要素です。現在の生成AIのイラストは、人物であれば両目の瞳の書き込みがアシンメトリーであるなど、注意深く見れば人間が書いていないことがわかります。しかし、パッと見たときの「うまさ」は、イラスト初心者のそれをはるかに凌駕しています。この表面上の「うまさ」は、美術館では評価されないかもしれませんが、SNSのような多数のイラストが瞬間的に「鑑賞」され、拡散されていく場においては大きな強みとなるでしょう。社会的文脈を含めたネットワークを見ていく重要性については、生成AIも他の技術と同様であるといえます。



ネットワークの再構成へ

では、そのような生成AIと私たちはどのように付き合っていくべきなのでしょうか。長見氏の試みはそのヒントとなるものでした。小説『フランケンシュタイン』を(本人曰く「ふわっと」)学習させた「maryGPT」を架空の展示会のキュレーターとして採用しそれをもとに作品を展開させる試みや、discordの発言をもとに「maryGPT」がうわ言のような文章を生成し、それをさらにChatGPTに接続、発言を連鎖させることでアイデアを出す方法など、そこで紹介された実践はどれも独創的な路線でした。

長見氏は、生成AIを自分とは異質な知をもつ存在として捉え、ときにはシャープペンシルの芯のように使い、ときにはAIの中で自分が泳ぐような形で用いていると語ります。このような取り組みは、生成AIを「脅威」として捉えるのではなく、むしろ自分自身のデザイン行為のネットワーク性を自覚しつつ、生成AIをそこに組み込み、さらなる新しいネットワークを作っていく試みであり、生成AIとのひとつの共生の道のよい提案だと思いました。

三宅氏は現在の生成AIを「想起装置」と表現しました。生成AIが今後もこのような方向性で進歩していくのであれば、創造活動のネットワークにこの「想起装置」をうまく組み込むファッションデザイナーも増えていくでしょう。そのためには、同氏も指摘したように(工学的なゴールの追求だけでなく)UI側の向上も重要な課題となります。また、最近の技術哲学の議論を踏まえてひとつだけ加えると、ネットワークの再構成において問い直されるものには、私たちが通常所与のものとしている概念自体も含まれます。今回のテーマでいえば、「著作者性(authorship)」もそうです。既存の著作者性の考え方を固定した上で「AIデザイナー」の正当性を検討する方向性とは別に、著作者性という概念自体を再考する方向性もありえます[2]。生成AIを創造的活動にどう活かしていくか、その試みはまだ始まったばかりです。

[2]

この方向性の検討についてはCoeckelbergh & Gunkel(2023)を参照。

長見佳祐(HATRA デザイナー)


参考文献

  • Bijker, W. E., 1995, “Sociohistorical Technology Studies.”, in Janasoff, S., Markle, G., Peterson, J. & Pinch T. (eds.), Handbook of Science and Technology Studies, SAGE Publications, 229-256.
  • Coeckelbergh, M., Gunkel, D.J., 2023, “ChatGPT: deconstructing the debate and moving it forward.” AI & Society, 1-11. DOI: https://doi.org/10.1007/s00146-023-01710-4
  • Hughes, T. P., 2009, “Technological Momentum.”, in Marx, L., Smith, M. (eds.), Does Technology Drive History?, Cambridge University Press, 12-12.
  • Johnson, D. G., 2006, “Computer Systems: Moral Entities but Not Moral Agents.”, Ethics and Information Technology, 8, 4, 195-204.
  • Law, J., 1987, “Technology and Heterogeneous Engineering: The Case of Portuguese Expansion.” in Bijker, W. E., Hughes, T. P. & Pinch, T. J. (eds.), The Social Construction of Technological Systems: New Directions in the Sociology and History of Technology, MIT Press, 111-134.

水上拓哉

1993年生まれ。博士(学際情報学)。2021年、東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。現在、理化学研究所革新知能統合研究センター(AIP)特別研究員。専門は技術哲学。特にソーシャルロボットの行為者性やその倫理的設計に関心がある。主な論文に「ソーシャルロボットの倫理の基礎づけ――道徳的行為者性の虚構的解釈による人間中心的枠組みの構築」(東京大学博士論文)など。