2023-04-25

ISSUE

006

CATEGORY:
Critique

LOCATION:

私たちを包むものは何であるか──ファッションにおけるケアの解釈に向けて

Text by 安齋詩歩子

SCROLL

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

2022年11月13日に渋谷パルコにて開催されたサステナブルファッションをめぐるカンファレンス「FASHION FOR THE PLANET」。株式会社ゴールドウインとSynflux株式会社のコラボレーションプロジェクト「SYN-GRID」の発表を記念して開催された本イベントでは、昨今のサステナブルファッションの潮流から、ディープテックの取り組み、惑星規模での未来に向けた議論といった多様な視点からのセッションが展開された。

今回、このイベントを振り返ると同時に、ここで展開された議論をさらに深堀り、補完し、さらなる活動へと繋げるためのクリティーク集「FASHION FOR THE PLANET EXTENDED」をお届けする。イベントでの議論をもとに、若手の研究者や活動家たちは何を受け止め、考えたのか。さらなる展開へと期待が高まるテクストを、お楽しみいただきたい。

今回は、生態系という大きな視点からサステナブルファッションを議論したセッション「CARE/ MULTI-SPECIES/ REGENERATIVE:サステナブルファッションと生態系の思想」に対して、ファッション研究者の安齋詩歩子さんに批評を寄せていただいた。

※イベントのアーカイヴはこちらからご覧いただけます。

Session 4「CARE/ MULTI-SPECIES/ REGENERATIVE:サステナブルファッションと生態系の思想」ドミニクチェン(早稲田大学准教授)+小川さやか(立命館大学教授)+松島倫明(WIRED日本版編集長)+川崎和也(Synflux株式会社 代表取締役CEO)

「サステナブルファッションと生態系の思想」のセッションは、HCI(Human Computer Interaction)を前提としたACI(Animal Computer Interaction)とマルチスピーシーズ民族誌等のポスト・ヒューマニティ研究を背景に、人間が感受できない微生物の活動をセンシングして糠床を喋らせるというドミニク・チェン氏の「NukaBot」の紹介から始まった。糠床の発酵過程はインターネット上の人々の交流のメタファーであり、オンラインコミュニティは「私たち」という認識論としか言いようがない。インターネットのこうした潤沢さは、バーチャルファッションという別の欲望の選択肢を私たちに与えてくれるが、人々のファッションを欲望する矛先とはまだなっていない。経済人類学者の小川さやか氏の研究対象はタンザニアの古着商人たちのようなインフォーマル経済の担い手だが、今日の人類学(民族誌)は「非人間」とのかかわりにまで拡張しているという。また、リジェネラティブ農法(環境再生型農法)が人間の介入によって自然(=非人間)を(破壊されるのではなく)より豊かにするように、これがファッションでも応用可能かという問題提起がWIRED日本版編集長の松島倫明氏によってなされた。



認識の埒外で

 糠床のメタファーはインターネット時代の私たちにとって、近代的個人がもはやデジタルの海にまで溶け出してしまっていることを示唆しているように思える。私たちはすでにカント的な認識論の枠組みではない、別の認識の中にいるのかもしれない。あるいは、小川氏が長年の参与観察で詳らかにしたように、タンザニアの古着商人は「ウジャンジャ」と呼ばれる(定義の難しい)ずる賢さを発揮することで、ときに騙したり、(後に自分が生き残るためにというような理由で)仲間を助けたりして生き抜いている。このようなインフォーマルセクターと呼ばれる非公式な場における経済活動は、私たちが親しんでいる経済活動とは異なっている。
 
認識の埒外のモノの研究をしているのがマルチスピーシーズ民族誌だが、その中でも著名な研究者で今回のセッションでもフックとなったのが、アナ・チンによる『マツタケ』という本である。人間中心主義から多種へと視野を広げ、かつ「野生」のリジェネラティビティを示唆するこの本について、少しだけ説明をしておきたい。
 
マツタケは(日本に住む私たちには自明であるが)日本では高級食材であり、チンによれば8世紀の『万葉集』にもその名が出てくるという。1970年代なかばにはほとんど国内で見られなくなったと言うが、高度経済成長で発展し続ける日本に輸入されるようになり、大きな経済市場が形成された。皮肉なことに人為的攪乱によって荒廃してしまった土地から(たとえばオレゴンの林から)、マツタケは生えてくる。そんなフェラル(野生)なものをめぐって、移民や自由を求める労働者たちがやってくる。そうして、マツタケ狩り、フィールド・エージェント、バイヤーといった人々の、チンの言葉で言えばポリフォニー的なアッセンブリッジ(※寄せ集め)が形成されていく。チンはまた、ジョン・ケージのキノコとの出会いを祝った「不確定」という短い曲を引き合いに出し、マツタケ狩りもまた、偶然や驚きに満ちた出会いへの傾注だと言う。マツタケは潜在的コモンズである。マツタケの香りをヨーロッパ人は我慢できない(ほど嫌なものだと感じ取る)が、日本人はむしろそこに喜びとノスタルジーを感じる。この香りの受け取り方という知覚の差異に、自然と文化の興味深い結び目があるとチンは述べている。

菌類と人間間のインタラクションについて、自らの実践「ヌカボット(Nukabot)」を事例に語るドミニクチェン(早稲田大学准教授)



関係性とケア

 マツタケの存在に一喜一憂することや、腐ってしまった糠床をかわいそうと思うこと、タンザニアの古着商人たちが商人同士のネットワークを駆使して生き抜く様は、共に生きているという、理性を越えた感情の揺れ動きが根底にある。ロブ・ダンは私たちが家で20万種の微生物等と共生していることを明らかにしているが、私たちはこうした生物だけでなく家電のような無生物とも「共生」している。もちろん、皮膚に一番近い衣服とも。私たちは普通に生きているだけで数多のモノと関わり影響しあっている。日常の感情と隣合わせのそれらのモノたちには、情動的なケアの可能性が潜在している。
 
キャロル・ギリガンは1982年に出版された『もうひとつの声で』において、ローレンス・コールバーグの道徳性発達理論、女性は男性に比べて道徳的に劣っているという考えに意義を唱えた。それが、女性は普遍的な徳の理論に基づく判断ではなく、ケアと責任を志向する倫理に従って行動するという「ケアの倫理」である。それをさらに発展させたのが1984年に出版されたネル・ノディングズの『ケアリング』で、ケア(あるいはケアリング)は母子関係のような愛の関係であるという。
 
ケアの関係は人間同士だけにとどまらない。ポール・ハンセンによれば、牛と人間はロータリーパーラーという搾乳場で機械のテンポによって結び付けられ、その外では情動的な関係を結ぶ。ダナ・ハラウェイは自身の愛犬を「伴侶種(companion species)」として、種の違いを超えた関係性を宣言している。
 
現在にいたるまで、看護や介護といった領域で人類学者たちによって「ケアとは関係性である」と主張され、またケアとは関係性の中の「行為」であるとされてきた。そしてそれだけでなく、ケアはただその場にいるだけで生成されるものであるとも論じられている。このように、関係を生きる過程でケアする者とケアされる者の役割が明らかになるというような、関係的発想がケアの現場には発生する。

文化人類学の理論と実践から人間以外の多種への視座の可能性について語る、小川さやか(立命館大学教授)



ケア/セルフケアとしてのファッション

 ファッション産業における仕事も、ケアの関係として読み替えることができる。オートクチュールであれプレタポルテであれ量産品であれ、繊維(など)から衣服が生産されるまでの作業工程は多く、デザイナーなどを中心に分業で行われるのが一般である。そして古くからは植物や生物、近代に至ってからはミシンなどの機械と、非人間の力を多く借りている。衣服の起源に近いものとして樹皮や葉から始まり狩猟で得た毛皮などが挙げられるが、それだけでは人間の人体にうまく合わなかったようである。しかし、動物の毛皮がタンニンを含む植物に触れたことにより防腐処理がなされることを知った人間は、その液で皮をなめすようになり、利用のしやすさは格段に上がっていく。さらに、羊毛は9,000年前頃から、植物繊維は4,000年前頃から、絹は1,500年前頃から実用化され、こうした繊維の保温性や通気性、保湿性等によって衣服の快適性は保証されていった。衣服はこのように人間と、機械、動物、植物など非人間との関係性のなかで生まれてきたものであり、私たちはそうやって組み上がったものに保護され、ケアされ続けてきたのである。だからこそ、脱人間中心的な視点で環境へ配慮するリジェネラティブ農法へのシフトなどをファッションでも適用し、大地をケアし返していく必要があるだろう。
 

自然/情報環境の発展的概念としての「リジェネラティブ」の可能性について語る、松島倫明(WIRED日本版編集長)



あるいはニーチェの「超人」のようにケアの関係性からセルフケアの自己との関係に移行し、「創造的」にセルフプロデュースすることも現代人には必要であると、ボリス・グロイスはパンデミック後に出版した『Philosophy of Care』の中で述べている。グロイスがケアの対象とする身体は象徴的な身体と物理的な身体の2つに分けられており、象徴的な身体にはインターネット上の身体など概念として拡張された身体が含まれる。さらにケアのシステム(医療機関、制度など)において、身体は(暴かれ公になるという意味で)親密であるとともに公的であり、この身体のアイデンティティはソーシャルメディアによく現れているように象徴的な身体と物理的な身体を一致させていくと言う。アンディ・ウォーホルが1968年に「15分間の名声(=誰でも15分は有名になれる)」と予言したのは間違いではなかったとグロイスは述べると同時に、インターネットは鏡であり欲望を映し出すカメラであるとしている。グロイスに従えば、物理的な身体と象徴的な身体の欲望は重なるということになり、これからバーチャルファッションへの欲望が増していくことが期待できる。今後、新しい技術や表現によってファッションや衣服のあり方が再定義されていくことに期待したい。
 
今はその発酵を待つばかりである。

参考文献

  • アナ・チン『マツタケ──不確定な時代を生きる術』赤嶺淳訳、みすず書房、2019年。
  • 小川さやか『都市を生きぬくための狡知――タンザニアの零細商人マチンガの民族誌』世界思想社、2011年。
  • 武井秀夫「ケアを考える」『千葉大学人文社会科学研究』19、pp. 1-17、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2009年。
  • ダナ・ハラウェイ『侶種宣言──犬と人の「重要な他者性」』永野文香訳、以文社、2013年。
  • ドミニク・チェン「メタ床──コミュニケーションと思考の発酵モデル」『表象09』pp. 138-155、2019年。
  • 林泰成「ケアリング倫理と道徳教育──ネル・ノディングズのケアリング論を中心に」『上越教育大学研究紀要』17巻2号、pp. 589-601、1998年。
  • ポール・ハンセン「酪農家と乳牛とのダンスレッスン」近藤祉秋, 吉田真理子編『食う、食われる、食いあう──マルチスピーシーズ民族誌の思考』青土社、2021年。
  • 牧島邦夫『衣服の科学──ヒトと衣服との関係』東海大学出版会、1995年。
  • ロブ・ダン『家は生態系──あなたは20万種の生き物と暮らしている』今西康子訳、白揚社、2021年。
  • Boris Groys, Philosophy of Care, Verso Books, 2022.

安齋詩歩子 ANSAI Shihoko

1990年生まれ、ファッション研究者(美学)。横浜国立大学非常勤教員、一般企業等での就労を経て、現在東京工業大学博士後期課程(伊藤亜紗研究室)に在籍。過去に、精神医学とファッションをテーマに、衣服と身体の親密性を研究するとともに、ファッションに関する著作の翻訳や論文等の文章を執筆し国内外の学会で発表を行う。現在は「衣服への触覚的な欲望」と「ケアとしての衣服」の観点から、オルタナティヴなファッション研究の可能性を模索している。