2021-10-07

ISSUE

001

CATEGORY:
Essey

LOCATION:
Tokyo

オリジナルをめぐる複雑さのなかで、非代替性とは何を意味するのか。

Text by Yoko Fujishima

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[1]

Kyung-Hee Choi and Van Dyk Lewis, “An Inclusive System for Fashion Criticism,” International Journal of Fashion Design, Technology and Education, 2017.(藤嶋陽子訳, 「ファッション批評の包括的システム」『表象 13』月曜社 pp.81-98.)

ファッションは芸術か、ファッションデザイナーは芸術家か。

これは現在まで繰り返されてきた紋切り型の問いであるし、野暮な問いとも受け止められるかもしれない。だが、ファッションは長らくこの問いと対峙してきた。そして今日、バーチャル空間におけるファッションというものへの期待が高まるなかで、再び向き合うべきものとなるのではないだろうか。
ファッションは実用性を伴うものであるがゆえ、カントの美的概念に基づいてファインアートと切り離され、そこに挑む言説も積み重ねられてきた [1]。だが、この実用性という部分が、バーチャルファッションを考えるうえで極めて厄介なものとなるだろう。

[2]

バーチャルファッションをめぐる法的状況については、以下の記事が詳しい。「関真也:バーチャルファッションのデザインをめぐるファッションロー」Fashion Tech News, 2021. (https://fashiontechnews.zozo.com/research/masaya_seki/ 最終アクセス 2021年10月1日)

[3]

 Atlas of Memory Robyn Lynch + Synflux NFT Collection (https://atlas-of-memory.synflux.io/ 最終アクセス 2021年10月1日)

バーチャルな衣服は、何のために存在するのか?

当然ながら、バーチャルな衣服は物理的に身体を保護する機能は有しない。裸体を隠すという意図であれば、人型のアバター–特に実在の人間を模したアバターであるならば「裸体」で歩かせるわけにはいかないのかもしれないが、そもそもアバターの身体は「裸体」でなく、マネキンのようなものでも良い。それでも我々は、バーチャル空間という場を自らの想像力が行き届く範囲に引き寄せて受容するために、見慣れた人間的な姿形を持ち込む。バーチャルファッションへの期待の高まりを導いたFortniteもあつ森も、顔がカエルでも、ペガサスでも、クマでも、皆すべて二足歩行で歩き、そして衣服を纏っている。人間の輪郭を与えるための衣服、バーチャルなプラットフォームに人間の介在を匂わせる、人間的な生活という営みをもたらすための衣服ともいえるかもしれない。



バーチャルファッションをめぐっては法的にも実用品、応用美術、観賞コンテンツという峻別から複雑な状況にあるようだが [2]、これがNFT—非代替性トークンと結びつけられることで、複雑性は増す。それは、ファッションにおけるNFT[2]というものが—アートにおいても同様なのかもしれないが、“オリジナル”との関係性やユーザー実践との交わりという点で、多様な解釈の可能性を秘めているからだ。唯一無二のバーチャルデータとして希少性が付与された衣服、身に付けられない衣服。ともすると、それはコレクション作品を収蔵するミュージアム的な実践とも共通項を見出せる。一方で、ミュージアムのように作品の時間を完全に止めるものとも限らず、何かに“使われる”可能性も有する。



衣服を“使う”というのは、フィジカルには衣服の形が先立ち、そこに個人の身体が入り込む。SMLとサイズはあれども、 “同じ”衣服の範囲は規定される。そして衣服は“使われる”ことで布地には着用者の皮脂がこびりつき、物理的な劣化をする。着用者と出会った他者の記憶のなかで、写真やSNSの投稿のなかで、着用者のイメージが衣服に付帯する。

バーチャルな衣服はどうなのだろうか。NFTによって所有者の移動を繰り返す履歴は残るが、使用の痕跡は残るのか。私たちは誰かから入手したバーチャルな衣服を纏うとき、そこに先人の存在を何らかの形で感じうるのだろうか。また、例えば私が3頭身のアバターを所有していたとして、その身体に合わせてデータを改変することは許されるのか。もしも許されるならば、それは同一の衣服といえるのか。同一なものだと認識するのだとすると、そこで同一性を担保するのはコンセプトなのか、意匠なのか。そして、所有するユーザーはそれをどこまで“使う”ことが許されるのか。それをメゾンやデザイナーは、どこまでコントロールできるのか。



NFTアートは、購入者によってスマートフォンの壁紙にされることもある。昨今ではミュージアムが名画のデジタルプリントをNFTで販売する事例も登場しているが、これは従来行われてきたミュージアムショップでポストカードを売ることと、どう違うのだろうか。そしてこういった“オリジナル”に付随する実践は、“オリジナル”の価値とどのように関わるものなのか。また、この構図がファッションにも持ち込まれたとき、従来のブランドの価値構造やフィジカルな商品といかなる関係性に置かれるのだろうか。



“Atlas of Memory” [3] もフィジカルにも作品(と言わずに商品と言うべきなのか)が販売され、いずれ誰かの手に渡る。そしてNFTでは動画作品が販売される。これは、ひとつのコレクションを実用品と芸術作品に切り分ける試みとも捉えられるだろう。一方で、芸術作品としての道を与えられた双子の片割れもミュージアムに展示されるドレスとは異なり、そこにまた、アバターが纏うものとしてユーザーの介入を受けるかもしれない。



こういったユーザー実践との絡まりがあれども、デジタルデータゆえに生み出されてから何年経過しても、いくつのアバターが着用しても、色鮮やかで無臭のままである衣服。繰り返し受け継がれても、過去の着用者の痕跡は履歴としての文字情報だけ。先にバーチャルな空間での衣服を、人間の輪郭を与えるための衣服と表したものの、この痕跡の不在はバーチャルな衣服というものを極めて無機質なものとしてしまうかもしれない。Synfluxはそこにデザイナー、ロビン・リンチの色褪せたアナログな家族写真、断片的な郷里の記憶といった極めて個人的な歴史を織り込んだわけだ。これは、バーチャルな衣服における時間経過と人間の痕跡をめぐる批判的実践とも捉えうる。

オリジナルと複製物の関係、そこでのユーザー実践との関わり。こういったファッションの伝統的な問い対して、バーチャルなファッションやNFTは新たな論点を提示する。そして“Atlas of Memory”は、その嚆矢となろう。